平成26年9月13日 講師 長谷川潤先生
第一部 「世界恐慌」と「昭和維新運動」
ー資本主義的社会問題とそれに対する反発ー
【世界恐慌=大恐慌】(昭和四年発生) 暗黒の木曜日
[原因]
≪当時の国際情勢≫
「ヴェルサイユ体制」(ドイツを危険視、差別)
「西欧の没落」(シュペングラー著)
「米国・蘇連」新興国の侵出、と各地民族主義。
≪「資本主義」の必然≫
「景気変動(循環)」ー「好況」「不況」の連続。
「不況」の深刻なものを「恐慌」と言う。
≪直接的な原因≫
「大量生産」方式に因る商品の過剰生産・在庫。
「欧州大戦」に因る財貨の減少と購買力低下。
[経過]
≪米国の株価、暴落≫ーウォール街(昭和四年)-
米国経済の「過剰在庫」に株式市場が反応。
「信用経済」の「信用」が喪失。資本主義の危機。
「恐慌」発生。「企業倒産」「失業者」急増。
≪米国の経済的無策≫ー「資本原理主義」ー
「見えざる手」を信頼。共和党(フーヴァー政権)
「倒産」「失業者」「購買力低下」「倒産」連鎖。
失業者数は、千万人を超過。
≪先進工業国の恐慌対策≫ー「ブロック経済」等ー
「英国」「仏国」ー「植民地、自治領」の利用。
「ドイツ」「イタリア」ー混乱が続く。
「日本」ー混乱が続くも「大陸」への活路有り。
≪蘇連経済の独自路線≫
外国は総て資本主義で経済的に孤立。無影響。
「五ヶ年計画」ー計画的、奴隷労働的経済体制。
[結果]
≪「持てる国」と「持たざる国」の対立≫
「持てる国」ー植民地や国内資源が豊富。
英国、仏国、米国、蘇連(若干異質)等。
「持たざる国」ー植民地や国内資源が乏しいー
ドイツ、イタリア、日本等。
≪国際緊張の高まり≫
「ヴェルサイユ体制」へのドイツ国民の不満。
「ナツィス政権」の成立(昭和八年)。復興開始。
周辺諸国との摩擦有るも巧妙なヒトラー外交。
≪思想的対立の激化≫
「自由主義」(「資本主義」「個人主義」)
「共産主義」(私有財産否定。無政府主義も)
「国家・民族主義」(ナツィス、ファシスト等)
≪米国と蘇連に拠るアジア侵出の強化≫
「ローズベルト政権」成立(昭和八年)
「ニュー・ディール政策」ー修正資本主義ー
販売市場を求めて、アジア侵出を決定。
英国、仏国の権益外の満州、北支を狙う。
「コミンテルン」悪用のスターリン謀略。
利用出来るものは、何でも悪用して権力維持。
資源獲得、生産拠点東遷へのシベリア開発。
【「昭和維新運動」】
[意義]
「明治維新」は、「和魂洋才」「四民平等」を欧って居たが、昭和の御代に入り、
日本的な要素が薄れて、財閥、重臣等、特権階級の華美な生活に反して、労働者、
貧農は困窮した。
其処で、国民生活を改善し、日本らしさを回復して、民族の独立と国家の尊厳、
國體を護ろうと青年将校、愛国者等が「維新」を呼号した。
[原因]
(経済的混乱)「金融恐慌」「世界恐慌」失業者。
(「農村恐慌」)対米生糸輸出の激減等。
(「政党政治」=「財閥」の腐敗)「金解禁問題」
(陸海軍「軍縮」への不満)対米英不平等。生活面。
[経過]
(「外圧」と政府の無策への国民の不満、反発)
「満州軍閥」と米国に拠る「排日運動」に対し、
「満蒙は日本の生命線」ー生命線思想ーの高揚。
「満州某重大事件」「満州事変」「五・一五事件」「満州国建国」等々、
関東軍の活躍。
(「軍部」「新官僚」への期待)
「重臣」「財閥」等は、欧米協調路線、外交。
国民の多くは、「軍部」「新官僚」に期待。
[結果]
(政治)大正期以来の「政党政治」は終幕。
(経済)大陸への進出が増加して回復、急成長。
(思想)「大陸雄飛」「國體明徴」、欧米と摩擦。
(外交)「国際連盟脱退」(昭和八年)。独自外交。
[「昭和維新運動」は「ファシズム」に非ず]
「戦後反日神話」の一つに「日本ファシズム論」
青年日本の歌
三 上 卓 作
一、泪羅の淵に波騷ぎ 巫山の雲は亂れ飛ぶ
溷濁の世に我立てば 羲憤に燃えて血潮湧く
二、權門上に驕れども 國を憂ふる誠なし
財閥富を誇れども 社稷を念ふ心なし
三、噫呼人榮え國亡ぶ 盲ひたる民世に踊る
治亂興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり
四、昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒夫が
胸裏百萬兵足りて 散るや萬朶の櫻花
五、古びし死骸乘り越えて 雲瓢遥の身は一つ
國を憂ひて起つときに 益荒夫の歌無からめや
六、天の怒りか地の聲か そも只ならぬ響きあり
民永劫の眠りより 醒めよ日本の朝ぼらけ
七、見よ九天の雲は乘れ 四海の水は雄叫びて
革新の機到りぬと 吹くや日本の夕嵐
八、噫呼うらぶれし天地の 迷ひの道を人は行く
榮華を誇る塵の世に 誰が髙樓の眺めぞや
九、功名何か夢のあと 消えざるものはただ誠
人生意氣に感じては 成否を誰かあげ論らふ
十、やめよ離騷の一悲曲 悲歌慷慨の日は去りぬ
吾等が劍今こそは 廓清の血に踊るかな
昭和五年五月、佐世保軍港にて作る。
時に年齢二十四歳、海軍中尉。
第二部 最近の国内外情勢
朝日新聞「偽報」問題
≪「偽報」は「誤報」「虚報」に非ず≫
「誤報」ー「まちがったしらせ」(広辞苑より)
「虚報」ー「いつわりの知らせ」(同上)
「偽報」ー一定の目的を以て、意図的に創られた、事実と異なる報道。
(広辞苑に無し)
≪「朝日新聞」の視点、立脚点、価値観≫
「GHQ反日体制」の忠実な下僕。
「日本及び日本的なるもの」「日本及び日本人」を徹頭徹尾「否定」「糾弾」「弾劾」
する。
「過去」「現在」「未来」に渡って日本を断罪。
≪「朝日新聞」の主たる反日報道≫
「文革礼賛報道」
「南京大虐殺事件」捏造、創造。
「侵略・進出書換え、教科書問題」偽報宣伝。
「従軍慰安婦奴隷狩り報道」
「日本人拉致問題」の黙殺。
「河野・村山反日談話」を全面支持、肯定、宣伝、等々。
「反日」は「朝日」の体質。
※参考資料
本田勝一「中国の旅」 昭和47年 朝日新聞社発行
『梅さんの村でも婦女子が逃げてかくれたが、こうした「獣兵」の目から婦女子がどのよう
にかくれたかについては、南京市東方紅区人民公社新民大隊の女性社員、蔡周氏さん(60)
の体験がよく物語っている。
やはり1937年12月のある朝、南京郊外の蔡さんの農村にも十数人の日本兵が現れ、すべての
家に放火した。村人たちは掘立小屋やテントをたてたが、数日して再び日本軍が現れた。
蔡さんは夫とともに、家から50メートルほど離れたミゾにかくれた。新婚まもないころなの
で、子供はない。二人を見つけた日本兵は、夫のかぶっていた中折帽を銃剣の先で突き落し
た。夫はいつも帽子をかぶっているので、額に日焼けしない部分の跡が白く残っている。
「これは軍帽の跡だ」と日本兵は叫ぶと、直ちに銃剣で額を突きさした。失敗して、頭の皮
と骨の間を貫通し、皮がめくれた。兵隊は剣を抜くやいなや発砲した。夫は頭を撃ちぬかれて
即死した。
ミゾから逃げだした蔡さんは、50メートルほど走って貯水池で行きどまりになり、兵隊が追
いついた。銃剣で七回突きさした。気絶して倒れた蔡さんを、日本兵は死んだものと信じて
去ったらしい。気づいたとき、蔡さんは声も出ず、動く力もなかった。草につかまって起き
ようとすると、痛みはないが腹が変だ。綿入れの服のボタンをはずしてみると、かたまった
血とともに、腸が出ている。驚いて腸を腹に押し入れたが、また出る。三、四回こころみた
がだめなので、そのままボタンをはめた。
隣家の十一、二歳の少年が、掘立小屋の入口に立っているのが見えた。声が出ないので手で
合図した。走り寄ってきた少年は「まだ生きていたの?」と驚いたが、蔡さんが黙ってみせ
た腸に仰天して、近所の人びとを呼びに行った。彼女は防空壕に運びこまれた。この壕は日
本軍が侵入してくる前に、国民党軍が掘らせたものである。薬などないので、傷口に灰をつ
け、ぼろの上衣一枚を裂いてほうたいにした。
村人たちは、今後また「獣兵」が来たときのために、婦女子をどうすべきか考えた。集落の
近くに自然の淵があり、中に小さな島がある。ここにも防空壕があり、外からはわかりにく
い。女子供約20人は、ここにかくれて暮らすことにした。集落には50歳余りの男が一人残っ
た。木の大きなタライに食物をのせて、島まで100メートルほどの距離を、ときどき竹ざお
で漕いで往復した。
10日ほどすると、20人余りの日本兵がまた村へ来た。集落に残っていた男に、兵隊は「花姑
娘(ホア・クーニャン=若い娘)を捜してこい」とおどした。黙っていた彼は、水を腹にい
っぱい注入されたりして拷問の末、殺された。
何日か後、蔡さんは村から宝塔橋難民区へ治療に出かけた。健康な人ならこんな恐ろしい出
歩きはしないが、彼女はこのままだとどうせ死ぬと思って、意を決して行った。その途中、
道ばたに中国人五、六人がひざまずいて並ばせられ、うしろに十数人の日本兵がいた。蔡さ
んの眼前で、この日本兵たちによって中国人の列は銃殺された。
さらに「一号門」(一号倉庫の門)まで行くと、日本兵が通行人の身分証明書検査をしてい
た。持っていない者は全裸にさせられる。蔡さんが通りかかったときは、男女二人が全裸に
され、レンガを両手に持って高くささげ、互いに向かい合って立たされていた。難民区では
医者が見つからず、お金がなければ薬さえどうにもならなかったので、蔡さんは何も得ると
ころがなく引返した。あの「一号門」をまた通ると、さっきの男女は殺されて、血の中に倒
れていた。
また何日かして、難民区に医者が来たという噂をきいた。再び彼女は行ってみたが、噂は嘘
だった。帰る途中、ある池のそばに、農家が堆肥を作るため掘った穴があった。十数人の日
本軍が、この穴の中へ五、六人の農民を生き埋めにしていた。蔡さんは、これまでに見たど
んな惨劇よりも、この生き埋めを恐ろしく感じた。杖を二本ついて歩いていたが、身ぶるい
しながら懸命に早く歩いて帰った。
「穴を自分で掘らせ、生き埋めにしている日本軍」とされる画像に、不自然に後ろを向く人物が
貼り合せの偽造写真
それからまもないある日、日本軍の司令部は「兵隊には今後婦女暴行を厳禁したから、年頃
の娘も安心して家に帰るように」といった意味の“おふれ”を流した。蔡さんの村でも、こ
れをきいて池の中の島からみんな帰宅した。ところが、またも現れた十数人の日本兵たちは、
蔡さんの近所の「王」氏の娘(17)、「李」氏の娘(19)、「温」氏の娘(21)と、三人を
さらい連れ去った。三人の娘たちは、それっきり消息がない。大勢の「獣兵」に強姦された
末、殺されたとみられている。
最後に蔡さんは、語調を強めて言ったー「私はもともと安徽省(南京の西)の出身ですが、
両親は乞食でした。親子で乞食をしながら南京の近くへ来て、私はある人に売られたので
す。みじめな日々でした。解放後、私も徹底的に立上がりました。私たちこそが国の主人公
になったんです。日本軍国主義の過去の犯罪は、決して忘れません。その復活に対しては、
日本の人民と手を組んで、徹底的に戦うでしょう」』
以下は「小さな自然、その他いろいろ」のブログ主からお借りした
元朝日新聞社記者、横川省三氏に関する記述をご紹介します。
http://blog.goo.ne.jp/ginga7788/e/b89ec64e76ca648159bfd6b336968cb0
国のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき ことな忘 れそ
と、明治天皇は詠まれたが、慈徳は、一旦緩急あるときは義烈と燃え、己が死しても周囲
を活かすこと、次のとおりである。
義和団事件を口実に条約を無視して満州に兵を入れ、露骨に朝鮮までを伺う形勢のロシア
と戦ったのが日露戦争であったが、その開戦(明治三十七年二月)の日、北京から、日本
の民間志士による特別任務班五組が、満蒙めざして出発した。
シベリアからウラジオストクに伸びるロシアの兵站線、東清鉄道の鉄橋を爆破し、ロシア
軍の後方を撹乱するのがその任務だった。その一班の中に、横川省三(写真左)、沖禎介
(写真右、胸像)がいた。
吹雪舞う、満目蕭条(しょうじょう)たる満蒙の曠原(こうげん)をラバと馬と徒歩とで
継ぎ進むこと四十余日、四百里(千五百キロ)、ようやく嫩江(のんこう)の近くまでた
どりついた時、ロシア兵に捕まり、ハルピンの軍司令部に送られた。押収された機材物品
から、橋梁爆破の計画はもはや蔽うべくもなかった。
急ごしらえの軍事裁判での尋問・答弁である。
裁: 被告の軍における階級、位階、勲等は?
横川: 軍人ではなく、無位無冠の一日本男子である。
裁: 軍人でない者が、この様な行為をなすとは思わぬが。
横川: 日本国民の一人として国を思わぬ者はない。軍籍ではないが、日本人すべ
て天皇陛下の赤子である。忠義をつくすのが、日本人の道である。
沖にも訊問がおこなわれた。
裁: 指揮者の姓名は?
沖: 生命にかえても、申しあげられません。
裁: それを告白するなら、刑を減じてやるが、どうか。
沖: われらは日本人である。武運つたなく捕らえられたからには、もとより死は
覚悟。死を賭しても国を守る覚悟でいる者が、どうして刑死を恐れましょうや。
もちろん両人は、日本に不利となる証言は何一つしなかった。それのみか、自分た
ちのような決死隊が何百組と潜入しているやにほのめかしたから、ロシア側の動揺
はかくせなかった。絞首刑をひるがえして銃殺刑に決定されたのは、両士の態度に
畏敬の念さえおぼえた司令部側が”軍人”としての名誉をおもんぱかったからであ
る。
刑死に臨んで横川は、郷里盛岡に残した二人の遺児に手紙を書いた。
「此の手紙と共に北京の支那銀行手形にて五百両(テール)を送る。井上敬次郎、
・・・・・・等の諸君と相談の上、金に換ゆるの工夫をなすべし」
妻なきあと、二人の遺児を預けている某家の貧困を思い、金を送ってやろうと思い
立ったのである。が、待てよ、と横川は考えた。五百両(テール)は特別任務用の
公金である。そこで、こう書き換えた。
「・・・・・・五百両を送らんと欲したれども、総て露国の赤十字社に寄付したり
」
寄付の申し出を受けたハルピン衛戍司令官ドウタン大佐は、「二人のお嬢さんに送
ってさしあげなさい」と親切に慰留したが、横川は、はっきりと言い切った。
「ご厚志は忝いが、日本国においては、祖国のために一命を捨てたものの遺族に対
して、天皇陛下も軍もわが同胞も、決してお見捨てになることなく、特別の礼をも
って待遇してくれます。よってそのご心配はいりません」
沖も同じように所持金の五百両(テール)をロシア赤十字社へ寄付し、
「ロシア傷病兵の役に立ててください」と申し出た。
「言いのこすことは、ないか」と尋ねられたとき、沖は紙と鉛筆を求めて両親へ訣
別の遺書をしたためた。その端正な書体は一字の乱れもなく、その沈着さにドウタ
ン大佐は思わずうなった。沖は、肥前・平戸の生まれ、鎌倉の禅刹でいささか心胆
を練った人である。
刑場はハルピンの東北にある小高い丘の上。諸外国の新聞記者と観戦武官が、かた
ずをのんで見守った。二十四人の射撃兵に”うてー”の命令を下す執行官シモーノ
フ大尉は、情を込めた声で、こう言ったものだ、
「愛をもって撃つのだ!」
「天皇陛下万歳!!」「大日本帝国万歳!!」 二人は力限りに叫んだ。銃口一閃
・・・・・・
ときに明治三十七年四月二十一日、満州の赤い夕陽が残雪に映える午後の五時三十
分。
横川省三 四十歳、沖禎介はわずかに二十九歳の生涯であった。明治天皇は、両士
刑死の日付を以て勲五等と金子を授け賜わった。東京・音羽の護国寺に建つ、他の
同士四人合せての【六烈士の碑】の文字「烈々の武士(もののふ)邦家の英(はな
ぶさ)なり」は、シベリア単騎横断で有名な福島安正将軍の撰文という。(田中正
明『アジアの曙』)より要約