第二百三十九号 【國語・國史・元号護持運動の勧め】

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平成二十五年霜月十五日発行

吾等平成維新の神風を巻き起こさん

                 撣亳 田中正明 先生

 

shikinensengu

昭和4年神宮式年遷宮絵巻

一、我日本の伝統と文化を護り、我「國體」を護持せよ。
ニ、我国内外に蠢く反日反動勢力を打倒せよ。
三、諸々の逆差別・特権要求勢力を粉砕せよ。
四、『一日一動』天下・民族の為に、一日一回は活動せよ。
五、大東亜戦争未だ敗れず、諸卿、東亜諸民族と共に皇道を 邁進せん。

 

 

 

 

【國語・國史・元号護持運動の勧め】

中山 嶺雄

(「式年遷宮」を言祝ぐ)

ー日本民族の真姿を其処に見たー

平成二十五年長月三十日、伊勢神宮内宮に参拝した。翌神無月一日、同外宮へ参拝し
た。何時参拝しても、神域の清澄幽玄にして厳かな佇まいには心を洗われる想いに浸
る。
本年は、二十年振りの「式年遷宮」に当たり、例年よりも格段に人出が多いが、一部
の外国人観光客を除いて、大部分が伊勢の御社の御神威を敬慕して参拝した善男善女
で有り、外国人でも何か神々しい雰囲気を感受するのか、礼に反する者は視なかっ
た。大鳥居で一礼して、聖流五十鈴川に架かる宇治橋を渡り、ご神域に入る。

夏ならば、急速に気温が低下して本来の我国に於ける自然を体感するのであるが、流
石に長月の末とも成ると、特に冷涼さを感じる訳でも無い。だが、神域の静謐と荘厳
さは、大勢の善男善女の中に居ても、そこと無く体感される。
数十年前に、英国の文明史家アーノルド・トゥインビーが伊勢神宮に参拝した際に 、
「日本の神話、古代史は、古代ギリシア・ローマのそれよりも素晴らしい」と言う趣旨
の発言を行なったが、それは当然であろう。
古代ギリシア・ローマの金石文化は、過去の遺物で有るのに対し、我国の神話、歴
史、伝承は、社殿等の文化財を含めて現在も猶、現実に生き続けているので有る。
世界中の文明を研究した英国の歴史家が、我國の國體を感受して、最大級の賛辞を
奉呈したのは当然で有る。

jingu五十鈴川で手水して、本殿へ向かう。
参拝者の流れは途切れないものの、喧噪又はそれに類する
雑音は全く聞こえず、静寂の杉木立ちを進む。
神宮が自然や森林を守るのか、自然や木立ちが神宮を護る
のか、多分、両者は不離不即の共生関係に在るのであろう。

やがて、旧本殿に成るで有ろう本殿付近に至ると、新本殿
に向けて立派な「雨儀廊」が設えられていた。御神體の御
遷御に使用する屋根付の回廊で有る。
本殿には多数の崇敬者が途切れる事無く、行列を作って参拝し、一部の人士は、御垣
内参拝も行なっている。
遥か左手に新本殿の一部が遠望出来るが、神殿の再生と言う民族の智恵は、素晴らし
いもので有る。日本民族が、各個人の身体に宿った精神や遺伝子を、個体を更新しな
がら継続させ、「民族的生命」を永続して来た様に、伊勢神宮も御本殿と言う物質的
枠組を交替させながら、神ながらの道の信仰と民族精神を伝承して来たので有る。

正に、偉大なる我日本民族の國史、伝統、精神の精華である。

翌日、外宮を参拝した。時折小雨がそぼ降る天候も遇って参拝者は内宮程多くはなか
ったものの、敬虔な善男善女は雨天をものとはせずに、内宮同様に雨儀廊の巡らされ
た本殿に参拝していた。
その正面には、千人を超すと思われる参列者の席が設営されて居り、「遷御の儀」の
御祭が如何に地元のみならず、全国に尊重されているかを物語って居た。

(「観光神道」「生活神道」への疑念を払拭されたし)

ー「神武天皇肇國」を知らない伊勢神宮ー

伊勢神宮の御存在意義には、限り無い至高の価値が存ると言う認識には異論は無い。
だが、外宮に在る「せんぐう館」を訪れた時、その確信が俄に揺らいでしまった。
何と、部分的にでは有っても、伊勢神宮は、反日体制に価値観が支配されて居るので
有る。

「國語」の基本は「和漢混交文」で有り、平仮名、片仮名、漢字を交えて表現される。
処が、神宮の紙袋には「第62回・神宮式年遷宮」と算用数字を横書に表記して居る。
国語破壊である。
更に、「せんぐう館」の展示説明では、「月読宮神宝」の説明が全て横書で有る。

せんぐう館

せんぐう館

国語は縦書が原則で有り、又、神々への崇敬の念
を抱いているのならば、表記は当然 「御神宝」と記
すべきではないか。
更に、「歳旦祭」から始まる「一年のお祭り」なる部
分では、縦書にしては有るものの、左から右へ順
番に列挙している。

我國語は、右から左へ改行するのが基本原則で有
る。近年、歴史年表等でも欧米の横書をサル真似
して、左から右へ書く精神文化的奴隷形式が増加
して居るが、伊勢神宮が欧米化したら、日本民族
は存在するのか。

決定的な伊勢神宮の無知、無責任な反民族犯罪は、「せんぐう館」の「年表」で有る。
「垂仁天皇の即位26年(紀元前4年)」、「雄略天皇の即位22年(478年)」と記載して在
った。
愚生は愕然とした。「紀元」とは「歴史の始まり」を意味する。奈良市西大寺の南の御陵
におわします垂仁天皇の御治世は「歴史が始まる前」の未開、野蛮な時代、社会で在っ
たと伊勢神宮は広言して居るので有る。

何たる歴史観か、何たる御皇室観か。
事有る度に、勅使の御下向を拝受する伊勢神宮が、第十一代天皇以前は「歴史の始ま
る前」と認定して居るので有る。
神宮に執って、歴史の始まりは、歴史科学的に実在さえ証明されては居ない「クリス
ト」の生誕であると規定して居るのである。
「雄略天皇」の御即位二十二年も、正しくは「皇紀一千百三十八年」と表記するのが、
御皇統を守護し奉る神宮の使命では無いのか。
我國の総本社を自負し、内部に國學、國史の専門学習、研究機関で有る「皇學館大学
」を有する伊勢神宮が、我祖国日本の「くに」が、「クリストの生誕を以て始まる」と広
言して、自家撞着を感じないとは、余りにも無知蒙昧、無神経の堕落では無いか。

皇祖を始め、祖霊各柱は、此醜態を冥界より如何なるお気持ちでご覧に成っていらっ
しゃる事か。
伊勢神宮の総てとは言わないものの、かなりの部分は、「GHQ反日体制」の反日的、認
識、洗脳、価値観に罹患、汚染、腐蝕して居ると断定せざるを得ない。
「反日連合国」支配下の「ISEJINGU」なのか「真正日本」の「総氏神」としての「伊勢神宮」な
のか、真摯に反省、思索、行動すべきでは無いか。

江戸時代以来、「葬式仏教」なる文言が流布された。仏教本来の教義や理念を忘れ、葬
式等の日々の生活や幕府下請けの「寺請制度」に寄生して生活費を稼ぐ寺院、僧侶への
侮蔑の言葉である。
同様に、「國體」の何たるか、「神道」の何たるかを忘却し、軽んずれば、其処に残るも
のは、多数の参拝者と観光客が齎す経済収入に依存する「観光神道」でしか無く、日々
安穏な衣食住の生活が保障されれば良いとする「生活神道」に過ぎなく成るでは無いか。
「神ながらの道」を守り、「國體」を護り、「信仰」に生き、吾等日本民族の神聖さを侵す
邪な勢力に対しては、断固として破邪の神剣を振り下ろして神罰を加える。
それが、存るべき「伊勢神道」の真姿では有るまいか。

(「御料林」を護らない伊勢神宮)

ー神々を護る使命と闘争を放棄したのかー

十数年前、当一日会始め近畿、東海の一部民族派が三重県、伊勢市を糾弾した。
皇学館大学の民族派有志の告発を受けて、吾等が行動を起こしたのである。
伊勢神宮には、古来、「御料林」が有り、式年遷宮にも、以前には、その御神木が活用
されて来た。
だが、その御料林に隣接する山林に、何と産業廃棄物の処分場が建設されるとの不敬
事案が発生したのである。

日本民族の原点で有る伊勢神宮が、欧米物質文明の残滓汚物で汚される事は、断じて
許すべからざる事案である。
我等民族派の熱意、赤誠に因って、その反民族的な問題は解決し、「産業廃棄物処分
場」は、造成されない事に成った。
その造成関連会社には、新潟県の田中角栄関連の銀行等も関連していたとの情報も有
り、各種利権が錯綜した如何わしい問題では有ったが、当時の伊勢市水谷市長は、海
軍予科練出身とかで吾等の主張に賛同し、三重県の幹部達も当方の活動に理解を示し
た。

だが、聖域を汚染される当事者の伊勢神宮並びにその関係者は、一切反対運動や活動
を行なわなかった。
吾等が反対運動を提起、行動しなければ、聖域を汚染する産業廃棄物処分場が、御料
林に隣接して造成され、五十鈴川の清流が汚染、汚濁していたかも知れないので有る。

現地の無関心に対して、内心不満は有ったが、吾等は「聖俗分離」の原則で納得した。
則ち、神宮等の「神聖」を守護する立場の各位は、世俗世界の利権は犯罪等に関与せ
ず、俗界から超越してひたすら信仰を護持する。
吾等、俗人は、汚らわしい利権犯罪勢力と対峙して、神宮の神聖と信仰を守護し奉る。
聖俗の役割分担に依って、「伊勢神宮」の神聖さを、資本主義的利権屋の強欲から護持
し奉るのだ。
吾等は、自らの立場を割り切って、細やかな責務を果たした。

その赤誠が万分の一も影響したのであろうか、今回の式年遷宮では、大正年間に植樹
され、育成された樹木の一部が活用されたと仄聞して居る。産業廃棄物に汚染される
こと無く、伊勢の大宮の建築部材が生産された事実に細やかな貢献が出来たと思え
ば、感謝感激この上ない慶びで有る。

神宮の森

内宮の背後に広がる神域 神宮の森 
「なにごとのおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」 ー西行法師ー

然し、仮に、吾等の存在が無ければ、或いは吾等に連絡する者が無かったならば、結
果は如何なる事に成ったであろうか。
産業廃棄物で汚染された木材、部材を使用して、式年遷宮が執り行われたのであろう
か。
斯かる危惧を払拭するには、伊勢神宮の抜本的意識改革、則ち、「前向き」「意欲的」、
より端的に表現するならば、「闘う伊勢神宮」の存在姿勢が必要なのでは有るまいか。

「闘う為に闘う」のでは無い。穏和な戦いの無い生活こそ、我國伝来の精神で有り、高
雅な日本民族の伝統である。
だが、内外の反日勢力に因る野蛮、劣悪、邪悪な、我國伝統、文化、國體への攻撃、
侵略、汚染状態が日夜、発生、伝染、拡大して居るのが現実である現在、國體と「くに
たみ」を護る為に、伊勢神宮の責務は大きいのではないか。

(教育への配慮に欠如した伊勢神宮)

ー「皇學館高校」の校長は元日教組ー

三重県の教育は、大阪や広島の様に全国的に知られては居ないが、大分県等と同様に
「日教組」支配が確立している。
略全員の教職員が組合に加入しているので、「組合員にあらざれば教員にあらず」の日
教組絶対支配が固定化している。
教育委員会事務局の大半も、各小中学校校長の大半も「日教組上がり」で有る。
この様な県では、税金を食い物にして反日活動を行なう自称「市民グループ」「市民サー
クル」「部落解放同盟」等々と「日教組」の連携が強く、反日マス・メディアもそれを応援
する為に、愛国的国民活動は逼塞を余儀なくされているのが実情で有る。

吾等が糾弾に訪れた時に応対した県教委幹部は、「ウチは、日教組、右派ですから」と
何回も「右派」を強調していた。
確かに、日教組にも反日狂信派が牛耳る反日政治優先の組合と、生活利権重視の功利
的組合が在るのは事実で有る。
だが、日教組の基本的性格で有る「反日・自虐・売国・逆差別」の体質は、濃淡の差異
は有っても根底では共通している。
奴等は、「神道」を否定し、「靖国神社」を呪い、「國體」破壊を目指し、我國の「文化・伝
統・精神」の抹殺、絶滅、根絶を謀る反日危険分子である。日本の敵、中共、韓国等の
反日諸国と論理、価値観、目的を同じくする売国奴、民族の裏切者である。

神聖な神宮の御鎮座まします伊勢の國で、斯かる不逞、不敬、危険な反日犯罪組織を
放置、放任すべきで無い事は、自明の理で有る筈である。

処が、何と、伊勢神宮は、我國の純粋な青少年に「反日洗脳」を強要する「反日犯罪組織
・日狂素」出身者を、傘下の「皇學館高校・校長」に招聘したのである。
日教組教員が、中学校の卒業生を送ってくれなければ、高校の経営は赤字に成り、存
続が危うく成ると言う「商売人根性」故の決定で有った。
確かに、「日狂素」の教員が純真な生徒に対して「あの高校へは行かない方がいいよ」と
進路の「助言」をすれば、大部分の生徒は受験しないであろう。
だが、後に「新しい歴史教科書」を採用した三重県下の私立高校が、「三重県教組」から
ありとあらゆる妨害、嫌がらせを受けた時に、同校は節を曲げなかった。それが「聖域
」としての学校では無いか。

「日教組校長」問題の告発は、同校内部からの連絡で幣会の探知する処と成った。
これを糾弾すべきか否かについては、若干迷ったが、伊勢神宮の御尊厳に配慮して、
当時の段階では神宮の自覚を待つ事にした。
だが、今回の「せんぐう館」の「歴史認識」を受けて、当時、神宮への働きかけを行なっ
て置くげきではなかったかと反省している。

(伊勢神宮以下、神社界は國體を守護すべし)

ー國語、國史、國學、元号等を護れー

全国各地の「神社」は、一体何の為に、誰の為に有るのか。
大阪府茨木市に在る「茨木神社」では、公道に面した参道入口に、様々な祈願内容を掲
示しているが、その中に「國體護持」を掲げている。だが、他の神社の祈祷文言でその
項目を掲示している神社を見た事は無い。
愚生が毎朝祈願している祭文の一つ、「武運長久」に至っては、見た事も無い。
「家内円満」「商売繁盛」「交通安全」「合格祈願」「健康増進」等々、国民の私利私欲の願望
を満たす謳い文句しか社頭には掲げられては居ない。その願文そのものを否定する訳
では無い。くにたみ各位に執っては、切実な願望であろう。

だが、天下国家を思い、公利国益を図るのも神社当然の使命、責務ではないのか。
無論、心有る神職は、日夜、国家の安泰と国威の発現、御皇室の弥栄を祈念しては居
よう。
只、皆が皆、本来の神事に挺身しているとは断言出来ないのが現実では有るまいか。

愚生は祝祭日には、当然国旗を掲揚する。
以前は近隣でも数軒の家屋で掲揚しては居たが、現在では寓居のみで有る。
以前は、所謂「ホーム・センター」なる商店でも正月前には販売しては居たが、現在は
何処の店でも国旗を置いてはいない。
所謂「旗屋」の多くも閉店して、多くの国民は国旗購入の術が無い。

だが、全国には八万もの神社が現存するでは無いか。全国の郵便局よりも多いので在
る。
無論、近年は大半が無住では在るが、それでも数千の社は、啓蒙、啓発活動が可能で
有る。
現在も継続中では有るが、大半の神社で意欲を無くして居る「国旗頒布」の活動を、神
社界が本気に成って推進すれば、国民意識の啓発、向上に多大の貢献を為す事は確実
で有る。
或いは、新築家屋の地鎮祭でお祝いに国旗を付与すれば、国旗の掲揚も増加しよう。
建設業界に対して、建築物に国旗掲揚設備の取付けを呼び掛けるだけでも、祝日の国
旗掲揚率は、急増するに違いない。

「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も」の「上杉容山」精神こそ、現下、日本神社界に
必要不可欠の至言ではないか。
「國學」を学び、「國史」に習い、「國體」護持の民族的使命、責務に覚醒した時、「観光神
道」「生活神道」「社家三代目神道」から、日本民族を日本人足らしめる「神ながらの道」に
回帰するのである。

  皇         kaminagaranomiti
  國
祈 再
念 興

武 皇
運 軍
長 再
久 建

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