師走七日(日)午後一時より
第二百六十九回目の「一日会」が
大阪府教育会館(たかつガーデン)
三階会議室 カトレアBにて開催されました。
この日は年末恒例となっております
長谷川潤先生御謹製による
『尊皇攘夷 皇紀二千六百七十五年 正暦』の
頒布がありました。
第一部 皇民 儀礼
東方 遥拝
国歌 斉唱
御皇統 御歴代 御名 奉唱
開戦の大詔 奉唱
英霊、戦没者、先覚諸烈士の御霊に対し奉り 黙祷
聖壽の弥栄 三唱
第二部 定例会
主宰者 挨拶。新参加者、自己紹介。
資料紹介、活動報告、活動予定等。
陽暦新年の抱負を各位より開陳。
第三部 三十分講演
演題 「今、蘇るインパール」ー大東亜戦争の現在的意義ー
講師 小林 路義先生(鈴鹿国際大学名誉教授)
今回は、七十三回目の開戦大詔奉戴日の前日を記念し、
民族派、俊秀気鋭の論者として高名な小林先生から、「インパール作戦」に於ける
秘話等のご紹介を拝聴し、更に「大東亜戦争」の世界的、國史的意義に関して言及
して戴きました。
【講演要旨】
一、今、甦るインパール
◇インド東北部(七州)の外国人入域の解禁…平成二十四(2012)年より…現実に
は昨年からインパールImphal⊂マニプール州Manipur
コヒマKohima⊂ナガランド州Nagaland
◇「インパール後世に、現地に博物館」、『讀賣新聞』平26・2・27
「インパール作戦70年の戦地慰霊ツアーで日本語ガイドを務めるイルンガム・シン
さん」、『讀賣新聞』平26・3・4
「インパール、やさしい日本兵 インド人の古老語る」、『讀賣新聞』平26・4・17
「インパール作戦を題材にした短編映画」、『讀賣新聞』平26・6・28
「『インパール1944』インドで披露」、『産経新聞』平26・7・22
二、歴史的意義が語られないインパール作戦
「慰霊の文」の虚妄⊂「平成16年ミャンマー日本人墓地五周年記念法要」
⊂「(社)日本ミャンマー友好協会・ミャンマー親善訪問団(平16・2月6日~12日)」
三、インパール作戦の歴史的意義
=インパール作戦こそ、植民地独立の直接の
契機となった
◇大東亜戦争…三つの流れの結節点
1、日米決戦としての大東亜戦争
2、支那事変の延長としての大東亜戦争
3、東亜の解放としての大東亜戦争
◇インパール作戦にはインド国民軍(INA)
<チャンドラ・ボースの自由インド臨時 政府の
国軍>六千人が参戦⇒「チャロ・デリーヘ」(進め、デリーへ)が合言葉
◇イギリスはインパール作戦に参戦したINA将兵を反逆罪で軍事裁判に
(ラール・キラーLal Qila’ Red Fort(赤い城塞))
その第一陣として(昭和二十[1945]年十一月)、
シャ・ナワーズ・カーン大佐(イスラム教徒)、セーガル大佐(ヒンドゥ教徒)、
G・D・ディロン大佐(シーク教徒)
⇒「この裁判が始るや、これらの将校を愛国の英雄とするインド民衆の抗議集会、デモ、
ゼネスト、暴動が全国に拡がり、反英独立運動が巻き起こる。
それでも軍事法廷はどこまでも筋を通して無期流刑を宣告し、そして同時に、イギリス
のインド総司令部は三人を釈放した。
三人が愛国の英雄として全国で大歓迎を受けたのは言うまでもない。
しかし、INA軍事裁判は終わらず、問責の範囲を大幅に狭めて、イギリスは第二次軍
事裁判に入る。しかし、、第二次軍事裁判で、アブドル・ラシード憲兵少佐に七年の刑
が宣告されると(昭和二十六[1946]年二月)、インド民衆の憤激は再び爆発し、 抗議デ
モ、ゼネストが全国に拡がり、更にはボンベイ、カラチ、カルカッタのインド人海軍将
兵が反乱決起して、艦船や基地施設を占拠してしまう。
水兵の決起を支持するボンベイのゼネストは暴動、騒乱に発展し、騒乱鎮圧に出動した
陸軍、空軍でもインド兵の全面的サボタージュが生じて、最早収拾がつかなくなる。
イギリス本国が本国海軍の投入を発表して、イギリスとインドの全面的対決の危機を迎
えた。
結局、国民会議派のパテルとネルー、イスラム連盟のジンナーが調停に乗り出す。
これら三人の調停によってようやく事態は収拾されたが、イギリスのインド支配はよう
やく終りに近づいていたのである。」(小林路義「大東亜戦争の文化史的意義」、『世紀
末から見た大東亜戦争』プレジデント社、平成三年十二月十八日)⊂田中正明『雷帝 東
方より来たる』自由国民社、昭和五十四年十一月=現在は『アジア独立への道』展転社、
平成三年七月)
◇インドは世界最大の植民地→その独立はそのまま他の独立に繋がる。
四、マウントバッテン伯爵の日本の皇太子殿下(現、今上陛下)への発言
◇昭和五十一年四月二十四日、藤原岩市氏、インパール第一回遺骨収集政府派遣団の御
報告で東宮御所に参内。
報告を聴取された皇太子殿下のお言葉
「藤原さんの報告を伺って、事の次第が分明いたしました。先月、ネパール国王の戴冠
式に参列した節、パーティーの席で、英国主席随員マウントバッテン元帥が私を捉えて、
いとも懇ろに『過ぐる戦争中、私が東南亜連合軍司令官として、印緬戦域で対戦した日
本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西部類の精強でした。
あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生れることはないでしょう』と激賞
してくれた」と仰せられたのである。(藤原岩市「〝進め!デリーへ〟の反響に想う」、
『戦後史を見直す』(木下甫編著)自然社、昭和五十四年十一月、小冊子=但し転載自
由)。
藤原氏は上記のラール・キラーの軍事裁判に弁護側証人として出廷
◇Louis Nicholas Mountbatten of Burma(1900~1979)
東南アジア連合軍最高司令官(1943年8月25日)、最後の(イギリス人)インド総督、
エリザベス女王のいとこ。昭和54(1979)年休暇中IRA(アイルランド共和軍)に
暗殺される。
cf.「英皇太子、大喪参列を拒む 女王夫君に貧乏くじ」『産経新聞』平1・1・30
五、インパール作戦
◇惨憺たる、歴史的敗北。白骨街道(靖国街道)。無謀な、愚劣な、地獄。
⇒作戦そのものと戦争の意義の混淆
cf. 主力は第十五軍下の三個師団4万9千600人(一個師団当り1万6千533人)
総兵力9万人
◇撤退戦の名将・宮崎繁三郎(中将) ⇔牟田口廉也中将
秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋、昭和五十七年六月。
伊藤正徳『帝国陸軍の最後』光人社NF文庫、平成十年。
cf. キスカ撤退=木村昌福(中将)
◇ビルマ戦線
越智春海『ビルマ最前線』図書出版社、昭和六十年四月。
泉谷達郎『ビルマに咲いた友情と信頼の花』日本ミャンマー歴史文化交流協会
(面影橋出版発売)、平成八年五月。
小田敦美『一兵士の戦争体験~ビルマ戦線、生死の境』修学社、平成十年八月。
六、日印の友好関係
※結論
作戦のまずさゆえ負け戦ではあったが、二つの意義があった。
・アジアの独立に繋がった。(戦争の目的は実現した。)
・負けても日本人の精神を常に残すことができた。(敵将からも評価を受ける)